トップページへ      ブログへ








USソウルは世界を変えたか?


  はじめに

 ここに書かれてる「キング牧師が殺されソウルは死んだ

」というテーマはソウルファンなら誰でも聞いたことがある

だろう。しかしあともう一つのテーマは誰も言わないのだ

が「ソウルとはゴスペルを裏切った音楽だ」ということ。よ

くソウルのルーツはゴスペルと言うけど僕はゴスペルを

聴いてもソウルを感じない。個人的にキリスト教が嫌いな

だけかもしれないが、ソウル・スターラーズよりサム・クック

のほうが大好きだ。確かにソウルシンガーの経歴をみると

ほとんどが教会で歌ったのが始まりと書いてある。音楽的

なスタイルも表面的には似ている。しかしソウルはキリスト

教の説くあの世よりもこの世の喜びをうたった音楽だ。だか

ら正確に言うとゴスペルを裏切った音楽というよりキリスト教

を裏切った音楽になるのかもしれない。

 1960年代に黒人公民権運動が盛り上がり、いつか黒人

も白人と平等になれるという期待が高まる中、黒人が自分

たちの存在を歌ったのがソウルだと思う。だから政治とは

切っても切れない音楽だ。ソウルを好きだと言うのに政治

的な話は苦手という人は、ソウルの表面しか聴いてないの

かなぁと寂しくなる。そういうわけで音楽の話の前に当時

の黒人の状況を書いてみたい。時代背景を知るともっと

ソウルの深いところが見えてくるはずだから。


  アメリカ黒人

 1619年8月20日、アメリカのヴァージニア州ジェームズ

タウンに、アフリカから最初の黒人奴隷が連れて来られた。

それ以後アメリカの植民地に必要な労働力として黒人奴隷

は増え続けた。

 1863年1月1日の奴隷解放宣言で黒人は法的な市民権

を獲得した形にはなった。しかし土地、家、仕事など自立す

る手立てはなく、黒人は再び小作農として白人地主に仕え

るしかなかった。リンチと差別に取り囲まれ奴隷解放以前

となんら変わりはしなかった。

 1896年に連邦最高裁判所は黒人が列車の白人席に

座った件について、「分離すれども平等」という判決を下す。

これによって実際は全く平等ではない南部の人種差別は

法制度として定着、教会も学校も食堂もすべて公共施設

は白人用と黒人用に分けられた。


  ゴスペル

 アフリカから奴隷としてアメリカへ連れて来られた黒人は、

白人の奴隷主にアフリカの宗教や音楽を禁止させられた。

しかし白人はキリスト教に改宗させたり賛美歌を歌わせよ

うとは思わなかった。なぜならアフリカ人は畜生とみなし

キリストの教えなどわかるわけがないと考えられていた

からだ。黒人は人間としても認められず、魂のないものに

魂の救済などあるわけないと思われていたのである。

 19世紀に入り白人は黒人たちにもキリスト教を教え、

非暴力で辛抱強いキリストが望ましい姿と説いた。

この世の奴隷としての苦しみは死んだ後で和らげられる

と教え、あの世で天国に行けると信じ込ませた。

「汝の隣人を愛せ」と過酷な労働を強いる白人奴隷主を

憎まないように仕向けられたのだ。キリスト教徒である

白人奴隷主は「隣人」であるはずの黒人を奴隷として

朝から晩まで働かせたのに。事実上キリスト教は奴隷制

を維持するための道具であった。奴隷制度は神が定めた

ものと説き、黒人は白人に仕えるように聖書が定めている

という者もいた。

 しかし黒人たちはキリスト教を表向きにしながらアフリカ

の宗教的伝統を忘れなかった。黒人教会の牧師の説教

スタイル、リズミカルな音楽は明らかに白人教会の静粛な

雰囲気とは違う。白人賛美歌を黒人が歌うことによって

アフリカ的要素が加わり違う音楽になった。それはいつ

しか黒人霊歌と呼ばれるようになる。黒人霊歌は自分たち

の現状を白人に悟られることなく大声で叫ぶ手段だった。

黒人が天国と歌うとき、それはまっとうな人間扱いされる

世の中のことを指している。旧約聖書の奴隷であった

ユダヤ人解放の物語を歌うとき、自分たちもいつか解放

されると願った。だがそれさえも月曜から土曜まで働かさ

れていた黒人の不満を、日曜に教会で発散させるための

ガス抜きとして作用していたのかもしれない。

 1920年代頃に、教会で禁止されていた楽器が入ること

により黒人霊歌はゴスペルへとなる。ちなみにゴスペルで

よく歌われる「アメイジング・グレイス」は元奴隷商人の

白人牧師が書いた賛美歌だ。


  リズム&ブルース

 この世の色恋沙汰などを歌ったブルースは、あの世の

ことを歌う教会からは悪魔の音楽と呼ばれた。そういう

意味でキリスト教を裏切った音楽としてのソウルのルーツ

はブルースなのかもしれない。実際は歌詞を除けば

ブルースとゴスペルの音楽的共通点は多い。

 1920年代にレコード産業は急成長、ブルースや

ゴスペルがレコード化されるようになった。当初は地元を

中心に黒人の間だけで流通していたこれらのレコードを

全米規模で販売する会社も現れ、サウンド的にも発展し

ていく。1940年代にはブルースもエレクトリック形態に

なっていきアコースティックなブルースよりもビートが

激しくなった。これらは徐々に白人にも受け入れられ

リズム&ブルースと呼ばれるようになる。

リズム&ブルースはジャズ、ブルースなど黒人音楽の

いくつかのジャンルが融合して、エレクトリックベースの

一般化を機に誕生した。そして1950年代半ば

サム・クック、レイ・チャールズ、ジェームズ・ブラウンら

によってリズム&ブルースはソウル・ミュージックへと

変わっていくのだ。


  公民権運動

 1951年にカンザス州の黒人が、娘を白人学校に入学

拒否されたという件で教育委員会を告訴した。1954年

5月17日、連邦最高裁判所は「分離された教育施設は

不平等」という判決を下したのだ。黒人の子供は白人の

学校へ行くことが法律で禁止されていたが、ついに認め

られたのだ。これによって1896年の「分離すれども平等」

という長い間、差別をおおっぴらに認めていた判決が

覆された。裁判には1909年に設立され法廷闘争を

全国的に行っていた全米黒人地位向上協会(NAACP)

の全面的支援があった。この頃から黒人の間にも意欲的

に公民権を求める声が高まり始める。では公民権運動と

いうのは具体的にどういうものか。学校、乗物、食堂、選挙

といったありとあらゆるものにあった黒人と白人の差別を

なくし法的な平等を獲得しようという運動のことだ。この

当時のアメリカはまだまだ黒人の権利が認められていな

かったのだ。


  キング牧師

 1955年12月1日にアラバマ州モントゴメリーで黒人

女性ローザ・パークス夫人はバスに乗車中、白人に席を

譲るのを拒否して逮捕された。この時代は白人のために

黒人は席を譲るのが当然だったのだ。黒人たちは

ローザ・パークス夫人逮捕の抗議のためバスに乗らずに

歩いた。バスボイコット運動が組織され、26歳の牧師

マーティン・ルーサー・キング・Jrはリーダーに任命される。

キング牧師の家には脅迫状や脅迫電話、爆弾までも

投げ込まれるが、1956年11月13日に連邦最高裁判所

はバスにおいての人種分離を違憲とした。バスボイコット

運動の成功はキング牧師の知名度を全国的に高めた。

翌年1957年2月14日、100人の牧師からなる南部

キリスト教指導者会議(SCLC)が結成されキング牧師は

議長となる。

 キング牧師は1929年1月15日にジョージア州

アトランタでキリスト教牧師の息子として生まれる。

小さい頃からキリスト教に親しみつつも聖書の教えを

すべて信じることはできない、キリストの復活はありえない

と言っていた。結局は父親と同じように牧師になった

ものの従来の牧師とは少し違っていた。今までの

キリスト教はこの世の苦しみを忘れ天国の幸せを考え

ようといったもので、事実上白人が黒人を奴隷化する

ための道具であった。しかしキング牧師は天国より

この世について話し、非暴力を訴え白人を恨んだり

憎んだりしてはいけないと説いた。キング牧師には聖人

というイメージがあるが女好きで浮気などしょっちゅう

だったらしい。キリストのような聖人ではなく人間くさい

人間だったのだ。


  シットイン・フリーダムライド

 1960年2月1日ノースカロライナ州グリーンズボロの

黒人大学生4人が食堂で白人席に座り、白人のいやが

らせを受けても非暴力、無抵抗で座り続けた。この座り込

み運動はシットインと呼ばれ、50以上の都市に広がり

100余りの食堂で行われた。学生中心で行われた

シットインをきっかけにして学生非暴力調整委員会

(SNCC)が発足した。

 1961年5月には公共機関における人種分離廃止が

どこまで守られているか確かめるため、ワシントンから

ニューオリンズまでバスに乗るフリーダムライドを決行した。

これは1942年にシカゴで設立された人種平等会議

(CORE)を中心にたくさんの人たちが結束して行われた。

アメリカ南部各地で白人暴徒に邪魔され、アラバマ州

アニストンではタイヤを切り裂かれバスが放火された。

フリーダムライドはアメリカ南部各地で行われ1000人

以上が命がけで参加した。これらのシットインやフリーダム

ライドといった運動は、クー・クラックス・クラン(KKK)

といった白人至上主義団体の暴力犯罪に直面しながらも

確実に白人層へ訴えかけていった。
 

  ワシントン大行進

 1954年に公立学校における分離は違憲とされたが、

1956年にアラバマ州のアラバマ大学で、1957年に

アーカンソー州リトルロックの高校で、黒人入学反対を

唱える白人が暴徒となり大きな事件になっている。

1962年のミシシッピー州のミシシッピー大学では

ジェームズ・メレディスの大学入学をめぐって、白人至上

主義団体は銃を使ってまで大学内に入ることを拒んだ。

多くの負傷者を出し死者が出るほどの混乱状態になった。

 1963年4月にはアメリカの中でも人種差別が徹底さ

れたアラバマ州バーミングハムで、キング牧師ら南部

キリスト教指導者会議がデモ行進をする。5月には

子供たちや若者も参加しデモ行進を続けたが、警察は

容赦なく高圧ホースでの放水や警察犬などで襲いわせた。

これら無抵抗な黒人を容赦なく打ちのめす写真や映像は

全国のアメリカ人の良心に否応なく訴えかけた。

 奴隷解放宣言から100周年にあたる1963年の8月28日、

自由と職を求めるワシントン大行進は様々な公民権運動

団体、宗教界、労働組合など様々な黒人、白人たちが団結し

20万人もの人々が集まった。たいした混乱もなく集会は

進行し最後に有名なキング牧師の演説で終わった。

 私には夢がある

 かつての奴隷の子孫たちと奴隷主の子孫たちが

 同じ食卓につける日がいつかくることを

 私には夢がある

 私の4人の幼い子供たちが肌の色ではなく、

 人間の中身によって評価される日がくることを


  サム・クック

 ソウルシンガーとして後々までに絶大な影響を与えて

いるのがサム・クックだ。1931年1月22日ミシシッピ州

クラークスデイルで生まれイリノイ州シカゴで育つ。

父親がキリスト教の牧師だったので幼い頃から教会に

通いゴスペルを歌っていた。1950年にサム・クックは

名門ゴスペルグループ、ソウル・スターラーズに加入。

甘い声で若くて男前のサム・クックは、ゴスペル界では

珍しく若者にアイドル的人気を博した。その後、ポップソ

ングの分野に進出、1957年「ユー・センド・ミー」が全米

1位に輝き、ゴスペル界を超えたポップスターとなった。

しかしゴスペル界からは悪魔の音楽に身を売ったと

非難される。これこそゴスペルを裏切った音楽、ソウル

の始まりを告げる事件であろう。ソウル・スターラーズの

レコードを出していたインディーズ・レーベル、スペシャル

ティ・レコードの社長は激怒した。熱心なキリスト教信者

の反感をかってゴスペルレコードの売り上げが落ちると

思ったからだ。「ユー・センド・ミー」は別のインディーズ・

レーベル、キーン・レコードから出された。

 その後大手メジャーのレコード会社RCAと契約。

白人プロデューサーの干渉を受けながらもソウルを

失わないギリギリまで許し、自分の歌を白人一般大衆

にもヒットさせた。今サム・クックを聴くとストリングスが

甘く被せられ白人女性コーラスも入りソフトな感じがする

かもしれない。しかし歌に耳を傾ければソウルを感じ取れ

るはずだ。それでも納得がいかない人は1963年の

ハーレム・スクエア・クラブのライブ・アルバムを聴いて

みれば、黒人の観客を前にして伸び伸びとシャウトする

ソウルフルなサム・クックがわかるはずだ。

 サム・クックは黒人所有、黒人経営のスタジオを設立、

自分のレーベルSARレコードも作りプロデューサーとして

若い黒人シンガーたちにチャンスを与えようとした。

サム・クックが経営するSARレコードはソウルを専門と

する初のインディーズ・レーベルだった。またライブでは

黒人と白人の分れていた席を人種の区別なく座らせた。

親しい友人ではなかったがキング牧師と知り合いだったし、

マルコムXとは仲が良かった。ちょうどマルコムXのいた

ネイション・オブ・イスラムに興味を示していたそうだ。

キリスト教からイスラム教に傾いてるわけだから、

明らかにキリスト教からは遠く離れていっている。

 しかし絶頂期の1964年12月11日、ロサンゼルスの

モーテルで彼は黒人の女主人に射殺された。

サム・クックにレイプされかかった若い女性が助けを

求めて飛び出した後、彼が女主人に逆上して殴り

かかってきたので正当防衛のために撃ったというのだ。

若い女性は娼婦だったしサム・クックの金品、免許証は

なくなっていた。サム・クックは決してキリストのような

聖人ではなかった。女好きだったし短気なところも

あったが多くの謎が残る最期である。キリスト教徒から

は教会を離れなければ絶対にあんなことにならなかった

と言われたが、教会を裏切らなければ人の心を揺さぶる

ようなソウルは生まれなかっただろう。サム・クックの

死後ヒットした「シェイク」のB面「チエンジ・ゴナ・カム」

では公民権運動についてこう歌われている。

 不可能だと思ったときもあった

 だけど今はそう思わない 今ならできると言える

 長い間待った とても長い間

 しかし僕は知っている 変化がやってくることを

 そう確かにやってくる


  レイ・チャールズ

 ニューヨークのインディーズ・レーベル、アトランティック・

レコードはトルコ人外交官の息子アーメット・アーティガン

によって1947年ニューヨーク州に設立された。最初の

2年間はヒットが出なかったものの、50年代にはリズム&

ブルースのヒットを出していく。そして1952年にアトランテ

ィックと契約したレイ・チャールズがリズム&ブルースを

音楽的にソウルへ導くのだ。

 レイ・チャールズは1930年9月23日ジョージア州オル

バニーに生まれフロリダ州グリーンズヴィルで育った。

小さい頃に失明したレイ・チャールズは教会が大好き

だった。教会なくして今の自分はないとまで振り返るもの

の、それが教会の教えをすべて信じるということではない

と言っている。15歳で学校を中退してプロのミュージシャン

になり18歳ですでにレコーディングをしていた。1954年

にアトランティック・レコードから出されたのが

「アイ・ガット・ア・ウーマン」だ。この曲はゴスペルの

歌詞の神様の部分を女性に置き換えたものだった。

そうレイ・チャールズはキリストよりも大の女好きだった

のだ。キリスト教の牧師たちは彼を汚い犬と呼んで

地獄で腐ると言ったという。

 1959年のヒット「ホワッド・アイ・セイ」がレイ・チャール

ズのソウルの頂点だと思う。バックに女性コーラスをつけ

ゴスペルのコール&レスポンスそのままにシャウトする。

エレクトリック・ピアノの音も斬新だっただろうし、ちょっと

ラテンなリズムも面白い。ブルース、ゴスペル、ジャズと

いった音楽を掛け合わせた新しい音楽、これこそソウル

であろう。サム・クックがまだ白人好みのアレンジで歌って

いた時代にこの曲はすごい。サムクックが精神的な意味

でソウルを生んだとするなら、レイ・チャールズは音楽的

にソウルを作り上げたのだ。

 目の見えないレイ・チャールズにとっては肌の色を気に

したことがなかった。レイ・チャールズは黒人と白人の

分離された席のライブを拒否して訴えられた最初の

人間の一人だ。キング牧師を尊敬していて彼が留置所

に入れられた時は弁護士や裁判費用集めなどを手伝った。

60年代初頭にはアラバマ州でキング牧師の支援コン

サートで歌っている。

 レイ・チャールズは1959年終わりに大手レコード

会社のABCパラマウントに移籍。自分のレーベルや

スタジオを作り自分で経営、管理していた。60年代に

入り外部の白人アレンジャーを起用してカントリーから

ポップス、ジャズまで幅広く歌い黒人から白人まで多く

の聴衆をつかんだ。レイ・チャールズはソウルを作り上げ

たものの自分の作ったものにあまりこだわっていなかっ

た。レイ・チャールズ自身は自分がソウルを作り上げた

ということを否定する。

「ソウルとは黒人が自由に心を解放した時にいつでも

生まれるものだから。」


  ジェイムズ・ブラウン

 自伝によると1933年5月3日にサウスカロライナ州

バーンウェルで生まれたジェイムズ・ブラウンは、ジョー

ジア州オーガスタで育った。15歳にもなると窃盗で捕まり

刑務所に入っていたほどの不良であった。19歳のとき

「神に人生を捧げるためにゴスペルを歌いたい。もちろん

ちゃんとした仕事に就き一生懸命に働きます。」と

嘆願書を出して仮釈放になる。しかしそこはジェイムズ・

ブラウン、刑務所から出るための口実にすぎない。

ゴスペルも仕事もそこそこにリズム&ブルースのコーラ

スグループの活動に熱中。ついに1956年「プリーズ・

プリーズ・プリーズ」でデビューしてヒットする。どうか行か

ないでと繰り返し歌い続けるコーラスはゴスペルの

コール&レスポンスのスタイルだ。神に人生を捧げる

と言いつつゴスペルのスタイルだけ借り、俗世間の歌を

歌うジェイムズ・ブラウンは明らかにゴスペルを裏切って

いるだろう。サム・クックやレイ・チャールズが白人好みな

アレンジで成功を手にする中、彼はあくまで黒人に

向かって歌いかけていた。

 ジェイムズ・ブラウン自身は1960年の「シンク」が

ソウルの出発点と言っている。1962年のアルバム

「ライブ・アット・ジ・アポロ」はビルボードのアルバム

チャートに1年と3ヶ月の間とどまり白人の間にも聴か

れるようになった。このアルバムは俺はライブの方が

凄いから、とレコード会社を説き伏せ自腹で出された

アルバムだ。

 ライブでは黒人席と白人席の枠を外し人種の区別なく

座らせた。1966年にはジェイムズ・メレディスが「恐怖に

対する行進」の決行中、撃たれたというニュースを聞き

面会に駆けつけ、その後ミシシッピ州テュペロで

ジェイムズ・メレディスと一緒に行進しライブを開いた。

NAACPの永久会員だったジェイムズ・ブラウンは

どれだけ売れても黒人たちのコミュニティについて考えて

きたのだ。


  ジャッキー・ウィルソン

 ミスター・エキサイトメントと呼ばれたジャッキー・

ウィルソンのライブ・パフォーマンスはジェイムズ・ブラ

ウンにも引けをとらなかったし、ポップスターとしても

サム・クックと同じ位置にいた。確かにジャッキー・ウィル

ソンのダンスを観ると、背の低く足の短いジェイムズ・ブ

ラウンよりスマートなのでサム・クックとライバル関係に

あったのもわかる。しかし現在ではサム・クック、

レイ・チャールズ、ジェイムズ・ブラウンの3人に比べると

知名度は落ちるだろう。

 1934年ミシガン州デトロイトに生まれたジャッキー・

ウィルソンは1957年にソロデビューして

「リート・ピティート」をヒットさせる。ジャッキー・ウィルソン

は人種隔離された黒人と白人の2部に分けられた

ライブで、前半の黒人のためにはライブしたが後半の

白人のためにはライブを拒否。そのため銃を突きつけ

られて町を追い出されたりしている。ジャッキー・ウィル

ソンはシットインや公民権運動を積極的に支援した。

1967年の夏にヒットした「ハイヤー&ハイヤー」は

タイトル通り愛の気分が高まっていくことを歌ったもの

だが、公民権運動の黒人たちの気持ちに合致するよう

な明るい雰囲気を持っている。

 サム・クックやレイ・チャールズ、ジェイムズ・ブラウンが

自分で作曲していたのに対して、曲を作らなかったこと

がジャッキー・ウィルソンの知名度が下がる要因だった

のかもしれない。ジャッキー・ウィルソンの50年代の

一連のヒットを作曲したのがベリー・ゴーディだった。

ベリー・ゴーディは曲がヒットしてるのにもかかわらず、

入ってくる金がわずかなことに不満を抱き自分で

レコード会社を作ることにした。これが1959年に

ミシガン州デトロイトで設立されるモータウンレコードである。

 1960年、テネシー州メンフィスのサテライト・レコード

からルーファス・トーマスとその娘カーラ・トーマスの

デュエット「コーズ・アイ・ラブ・ユー」がローカルヒット。

このレコードをアトランティックのジェリー・ウェクスラーが

全国配給契約をした。これが後のスタックスレコードである。


  公民権法

 1964年7月2日、ついに公民権法は成立した。

これによって公共施設や公共教育での人種差別は

法的に禁止となった。1965年1月、キング牧師は

黒人有権者わずか1%のアラバマ州セルマに行く。

公民権法では黒人の選挙権も保障しているのに、

識字テストや財産資格、居住条件などで黒人に登録

させないようにしていたのだ。3月21日、キング牧師は

セルマからモントゴメリーまで行進し公正な有権者登録

の実施を訴えた。5000人で始まったこの行進は5日

かけてモントゴメリーに到着したときには25000人に

増えていた。この出来事は投票権法案を可決するように

連邦議会を促し1965年8月6日投票権法は可決された。

これによって南部で黒人の登録を妨害していた制度を

撤廃した。


  マルコムX

 1930年にミシガン州デトロイトで広まり始めた

ネイション・オブ・イスラム(NOI)は、イライジャ・ムハマド

が組織を作り1963年には信者は30余りの州で5万人

以上に達していた。別名黒いイスラム教と呼ばれる

彼らは黒人を神様、白人は悪魔とし、キリスト教を黒人を

奴隷にすることを良しとした宗教と否定した。イスラム教

を拠り所にしているがネイション・オブ・イスラムは白人

は入れないので、アラーを信じれば白人でもなれるイス

ラム教とは絶対的に違う。白人社会への融合を目指す

キング牧師らの公民権運動とは対照的に、徹底した

白人社会との分離と黒人社会の自立を提唱した。

サム・クックはネイション・オブ・イスラムに興味を示し、

ジョー・テックスは入信し、ついには説教師にまでなっ

ている。

 マルコムXはネイション・オブ・イスラムのニューヨーク

支部の指導者として頭角を表し、世間の注目を浴びるよ

うになっていた。マルコムXはマルコム・リトルとして

1925年5月19日、ネブラスカ州オマハで生まれた。

黒人差別問題に熱心だったキリスト教牧師を父に持つ。

KKKに何度も脅迫を受け、家を焼かれたこともある。

1931年9月マルコムが6歳のとき父親は線路のそばで

頭を潰され身体は半分に切断された姿で発見された。

地元の黒人たちの間では白人至上主義団体に殺された

と噂された。大きくなったマルコムはドラッグ売人に売春

斡旋とありとあらゆる犯罪に手を染めたが、21歳でとうと

う窃盗で逮捕された。刑務所で兄からネイション・オブ・

イスラムを勧められイライジャ・ムハマドの教えに触れる。

すっかりネイション・オブ・イスラムの教えに入れ込んだ

マルコムは1952年に刑務所を出るとすぐに入信して

マルコムXの名前をもらう。マルコムの姓リトルは白人の

奴隷主に押し付けられた名前なので、自分の祖先の奪

われたアフリカ名の象徴としてXをつけるのだ。ネイショ

ン・オブ・イスラムの活動に熱心なマルコムはイライジャ・

ムハマドにも可愛がられる。マルコムが加わって以後、

信者は急激に増え続けた。

 マルコムXには暴力的なレッテルを貼られているが、

黒人の自衛や正当防衛の権利を要求しただけで、

彼自身ネイション・オブ・イスラムに入信して以来、

暴力行為をとったこともなく暴力を奨励したこともない。

この時代黒人が白人の警官に何かしらの理由をつけ

られ殺されることがあるのだ。それに対して自分自身を

守る権利を訴えるのは人間として当然である。しかし

白人からすれば黒人は非暴力であれ、自衛するやつは

暴力だということなのだろう。そしてその根拠となるのが

キリスト教の「右の頬を打たれれば左の頬を向け」という

教えなのだ。

 イライジャ・ムハマドは公民権運動のような街頭での

行動は禁止していた。マルコムは黒人運動が激しくなる

中、ネイション・オブ・イスラムの非政治的態度にいらだち

を感じるようになる。いつしかイライジャ・ムハマドと対立

するようになり、追われる形で1964年3月にネイション・

オブ・イスラムを離れた。その後イスラム教の聖地メッカ

に巡礼したマルコムは、白人のイスラム教徒が黒人の

イスラム教徒と共に祈っているのを見てショックを受ける。

帰国後のマルコムは「以前はすべての白人を非難して

いた。白人の中にも誠実な人はいる。」と言っている。

マルコムは北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカの各地

の黒人がアフリカ諸国の人々と統一するための組織、

アフロ・アメリカン統一機構(OAAU)を設立する。国内で

は公民権運動とも協力していこうとしていたし、国外では

外圧を利用して国連にアメリカを黒人の人権侵害で訴え

ようとしていた。1965年2月21日マルコムはニューヨー

クのハーレムで、アフロ・アメリカン統一機構の集会で

演説しているときに射殺され39歳の短い生涯を終えた。

事件後捕まった犯人はネイション・オブ・イスラムと名乗

るが、はっきりせずFBIやCIAの仕業とも言われている。


  ロングホットサマー

 法的な差別がなくなったとはいえ北部の都市での黒人

は、貧民街に取り残され劣悪な学校教育のもと職につくこ

ともできなかった。これらは街頭での暴動を招くことになる。

1964年の公民権法が設立して2週間あまり、ニューヨー

ク市のハーレムでは白人警官が黒人少年を射殺したの

が原因で暴動が起こる。1965年投票法に署名した5日

後にもカリフォルニア州ロサンゼルスのワッツ地区で暴

動が起き死者34人、負傷者895人、逮捕者は4070人

も出た。ワッツ地区は典型的な黒人ゲットーで住民の

98%の黒人が狭い面積に密集して生活し失業率は30%

に達していた。暴動は1967年には150近くの都市や町

で起こり総死亡者83人、逮捕者16000人以上になった。

ニューアークとミシガン州デトロイトで起こった暴動が特に

ひどく、多くの家や店が焼かれ連邦軍が招集された。

これらの暴動は毎年夏になると起こることから60年代

後半の夏をロングホットサマーと呼ばれた。


  ブラックパワー

 1962年にミシシッピー大学に黒人として初めて入学

したジェイムズ・メレディスは4人の友人と共に、1966年

6月に黒人の選挙登録を呼びかける「恐怖に対抗する

行進」を行った。テネシー州メンフィスからミシシッピー州

ジャクソンまで歩く予定の途中に彼は背後から狙撃され

病院に担ぎ込まれた。事件を聞いて主な公民権団体ら

が駆けつけ行進は続けられた。このとき学生非暴力調

整委員会の委員長ストークリー・カーマイケルは、白人を

参加させるべきではないとキング牧師と対立。結局スト

ークリー・カーマイケルが折れたのだが、公民権運動の

分裂は決定的だった。

 1966年が終わる頃には、学生非暴力調整委員会は

メンバーの投票により黒人だけの組織となった。委員長

であったストークリー・カーマイケルはキング牧師に近い

立場にいたのだが次第にマルコムXに影響を受けブラッ

クパワーを提唱した。しかしブラックパワーと言われても

漠然としていて具体的にどういうものなのかよくわからな

い。ストークリー・カーマイケルは「黒人が自分自身の目

的のために自分自身の言葉で自分自身の定義を行え

ばよい」と言っている。ジェイムズ・ブラウンはこう言う。

「ある者にとって黒人のプライドであり、黒人がビジネス

を所有することであり、政治で発言権を持つことを意味し

た。ある人にとっては自己防衛することであった。また他

の物にとっては革命を意味していた。」

 1966年ワシントンでブラックパワーを支持する黒人を

組織するためブラックパワー会議が開かれている。翌年

1967年の第2回会議では出席者が100人から1000人

に増加していた。時代は白人と同じ権利を望む非暴力

から、黒人の尊厳を誇るブラックパワーへと変わっていく。


  キング牧師の死

 キング牧師はベトナム戦争反対を訴え政府批判を強め

ていくが、政府の支援を求める公民権運動の指導者たち

はいい顔をしなかった。全米黒人地位向上協会は公民

権運動と平和運動を結びつけるキングの方針は誤りと

決議を出す。1967年12月キング牧師は黒人だけでなく

貧しい白人、メキシカン、プエルトリカン、ネイティブ・アメ

リカンなどあらゆる人種の人々が団結して、全米10都市

から首都ワシントンへ行進し政府に貧困対策を要求する

という「貧者の行進」計画を発表した。これに至っては他

団体はもちろんのこと南部キリスト教指導者会議の幹部

からも反対された。キング牧師は「貧者の行進」が望まし

い結果を生まない場合は、非暴力の失敗を認めねばな

るまいとまで言っている。いつしかキング牧師は公民権

運動からもブラックパワーからもどんどん孤立していってた。

 1968年4月3日キング牧師はテネシー州メンフィスの

清掃労働者ストライキ支援集会のため教会で演説した。

その翌日4月4日にモーテルのバルコニーで射殺され

39歳の短い生涯を終えた。事件後捕まった白人犯人の

後ろにはFBIやCIAがいたとも言われるが真相は謎の

ままだ。キング牧師の死は130の都市で暴動を引き起こ

し死者46人負傷者3500人逮捕者20000人を出した。


  モータウンレコード

 自動車産業の中心地として有名なミシガン州デトロイト

のベリー・ゴーディは、スタジオを借りミュージシャンを雇

い自分でレコードを作ることにした。1959年デトロイトの

別名モーター・タウンから名付けられモータウンレコード

設立、地元のレコードプレス会社でプレスして自ら全国

配給も行った。こうして1960年ミラクルズの「ショップ・ア

ラウンド」がモータウンにとって初の全国的ヒット。

1961年にはマーベレッツが「プリーズ・ミスター・ポスト

マン」で全米1位に。マービン・ゲイもヒット、そのバック

コーラスをしていたモータウンの秘書マーサ・リーブス

もマーサ&バンデラスでデビュー、他にも13歳の天才

少年リトル・スティービー・ワンダー、テンプテーションズ

などが次々にヒットを放っていった。

 1964年まったくヒットの出なかったシュープリームス

は「ホェア・ディド・アワ・ラブ・ゴー」が全米1位の大ブレ

イク。これ以降シングル5枚連続1位に輝きモータウンの

看板スターになった。1964年といえば全米のヒットチャ

ートはビートルズを筆頭にブリティッシュ・グループに占領

されていたが、その中でモータウンだけが肩を並べ競い

合っていた。

 この頃までにモータウンはヒット曲を作る生産工程を

確立していた。複数の作曲家に競争させより良い作品を

産み出す方法だ。エディ・ホーランド、ラモント・ドジャー、

ブライアン・ホランドの3人による作曲チーム、ホーラン

ド=ドジャー=ホーランドらに加え、ミラクルズのスモー

キー・ロビンソン、社長ベリー・ゴーディ本人も参加した。

彼らは毎日スタジオに入り、来る日も来る日もレコーディ

ング。そしてそれらは毎週会議にかけられヒットしそうな

ものを一押しのアーティストに歌わせた。またアーティスト

をマネージメントするだけでなくマナーや、ステージの振

り付け、インタビュー対応まで指導した。モータウンの

キャッチフレーズはサウンド・オブ・ヤング・アメリカと呼ば

れ、黒人はもとより白人にも大人気だった。

 世間一般のモータウンサウンドと言えばホーランド=

ドジャー=ホーランドの作品だろう。1964年から1968

年までにシュープリームスからマーサ&バンデラス、フォ

ートップス、アイズレーブラザーズと次々にヒット曲を作り

出した。1966年のシュープリームス「ユー・キャント・ハ

リー・ラブ」を聴くと心が踊る。幾多の人たちに盗まれ続

けた永遠のベースライン、ウキウキするドラム、軽快な

タンバリンとともに刻まれるギター。これらモータウンの

サウンドを支えていたのがピアノのアール・ヴァン・ダイク、

ベースのジェームス・ジェマーソンらの腕利きスタジオ

ミュージシャン、ファンク・ブラザーズである。特にベース

のジェームス・ジェマーソンの演奏はビートルズのポール・

マッカートニーや多くの人々に影響を与えている。

 モータウンの作品がポップで白人にも売れるため黒人

らしくないという意見があるがベリー・ゴーディは公民権

運動を支持した。キング牧師の有名なワシントン大行進

の演説などをレコードにしている。しかしあくまでベリー・

ゴーディはビジネスマンだ。成功してるビジネスを白人に

反感を抱かせるようなメッセージで駄目にする気はなかっ

た。ブラックパワーのストークリー・カーマイケルのレコー

ドなどはモータウンの事業とわからないように出していた。

1967年夏のデトロイトで起こった暴動のときモータウン

のスタジオは最も激しい中心地域に近かった。周りの店

が燃えたり盗まれたりする中、被害はなかった。たまた

まなのか暴徒がモータウンだけは見逃したのかはわか

らない。今年は夏、ストリートで踊るのは今こそと歌われ

るマーサ&バンデラスの「ダンシング・イン・ザ・ストリー

ト」では暴動を扇動するとラジオ局は放送を控えた。

実際は暴動より踊りをという思いが込められていたそうだ。

 1967年シュープリームズはダイアナ・ロス&シュープ

リームスと名前を変えダイアナ・ロスは着実にソロの準備

をしていた。リトルのとれたスティービー・ワンダーはヒット

を続出していた。そんな中最もヒット曲を作っていたホー

ランド=ドジャー=ホーランドは、自分たちがそれに見合

う正当なお金をもらっていないと1968年にモータウンを

離れていった。因縁にもそれはキング牧師が殺された年

であった。モータウンはキング牧師の遺志となった「貧者

の行進」の慈善コンサートにダイアナ・ロス&シュープ

リームスやスティービー・ワンダー、テンプテーションズ

らが出演し、コンサート後はアトランタからワシントンの

行進に参加した。


  カーティス・メイフィールド

 カーティス・メイフィールドこそシカゴソウルである、と書く

と乱暴だがシカゴソウルを代表するということには文句な

いと思う。カーティスは1942年6月3日イリノイ州シカゴ

に生まれ、祖母がゴスペル・シンガーであったことから子

供の頃から教会に通いゴスペルを歌っていた。1957年

にジェリー・バトラーと5人組のコーラスグループ、インプ

レッションズを結成、翌年「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」

をヒットさせる。その後数枚のシングルを出すもののヒット

せず、リードシンガーのジェリー・バトラーはソロとして

独立してしまった。カーティスはジェリー・バトラーのギタ

リスト、作曲家として働きつつインプレッションズの再生を

夢見ていた。インプレッションズは新しく3人組として再

スタート。今までのドゥーワップ・コーラスからゴスペルを

ルーツとする新しい時代のソウル・コーラスを確立させ

1963年「イッツ・オールライト」がヒット。そのソウル

コーラス、カーティスが弾くひっかくようなギターカッティン

グ、にぎやかなホーン、ここにシカゴソウルが完成したのだ。

 若い頃キング牧師の活動に感動したカーティスは、

この頃から公民権運動に同調した曲を次々にヒットさせ

ていく。黒人女性への愛情を歌った「アイム・ソー・プラウ

ド」、キング牧師のキャンペーンソングにもなった「キープ・

オン・プッシング」、社会変革への参加「ピープル・ゲット・

レディ」。とくに「ピープル・ゲット・レディ」はゴスペルシン

ガーにも歌われるようになる。みんな用意はいいか列車

が来る、と歌われるこの列車は古くからゴスペルのテー

マにある天国への列車かもしれない。もちろんトレインの

もうひとつの意味である人々の行進、公民権運動の参加

こそ最大のテーマであろう。ソウルはゴスペルを裏切った

音楽としてきたが、カーティスにはまったく裏切ったところ

は見えない。しかし60年代の公民権運動の時代にはソウ

ルがゴスペルに取って代わったのだ。教会のいう自由で

はなく街頭の自由を歌ったソウルへと。1968年1月に

ヒットした「ウィー・アー・ウィナー」は危険すぎるとラジオ

局で放送禁止になった。我らは勝利者、さぁ前に進み続

けよう、と歌われるこの曲はインプレッションズの頂点だ。

 カーティスはインプレッションズの活動以外にメイジャ

ー・ランスやジーン・チャンドラーといったシカゴソウルの

作曲家、プロデューサーとして活躍。またサム・クックや

レイ・チャールズ、ジェームズ・ブラウンと同じように録音

スタジオ、自分のレーベルを設立した。レーベルの成功

は他の黒人シンガーを奮い立たせ自立を促しただろう。


  ソロモン・バーク

 レイ・チャールズをABCに引き抜かれた後、アトランティ

ックのソウルを担ったのはソロモン・バークだった。1936

年フィラデルフィア生まれのソロモン・バークは子供の頃

から祖母の作った教会で説教を始め、驚異の天才少年

説教師と呼ばれラジオ放送までしていたという。ゴスペル

からリズム&ブルースに転向したものの今度は何故か

葬儀屋になる。結局1960年にアトランティックと契約し

て歌手に戻り、翌年からヒットを連発させて、キング・オブ・

ロックン・ソウルという名前で称えられる。1968年の

「アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー」では自由になるってのは

どんな感じなんだろう、それがわかったらいいのにと

歌った。1961年から64年までの間はソロモン・バークが

アトランティックを支えていた。全盛期にはジェイムズ・

ブラウンも嫉妬したほどだ。しかし1963年に無名の歌

手が登場して瞬く間にソロモン・バークの地位を脅かし

た。その若者こそがオーティス・レディングだった。


  スタックスレコード

 1957年にテネシー州メンフィスで白人のジム・スチュ

ワートが始めたサテライト・レコードは、1961年には

スタックス・レコードと名前を変えた。閉鎖された映画館

の客席をスタジオに売店をレコード屋に改造。そんな

スタックスのスタジオに4人の黒人白人混成のミュージ

シャンが集まるようになる。オルガンのブッカーT・ジョー

ンズ、ギターのスティーブ・クロッパー、ベースのルイ・スタ

インバーグ(1964年からはドナルド・ダック・ダンに代

わる)、ドラムのアル・ジャクソン。この4人こそブッカーT

&MGズだった。1962年、彼らが即興で演奏した「グリー

ン・オニオンズ」がヒットする。彼らはスタックスのほとん

どのアーティストのバックをつとめ、プロデュースや作曲

もした。メンフィスは人種差別が激しい街にもかかわらず

スタックスのスタジオでは黒人白人は関係がなかった。

 こうしてソウルへの基盤ができたスタックスにオーティ

ス・レディングがやってきたのは1962年の10月。オーテ

ィスのオリジナル「ディーズ・アームズ・オブ・マイン」を録

音する。翌年の1963年にこの曲はヒット。オーティス・レ

ディングは1941年9月9日にジョージア州ドーソンに牧

師の息子として生まれ、ジョージア州メイコンで育った。

小さい頃から教会で歌っていた。オーティスとMGズの

組み合わせは素晴らしく、伴奏は素朴、曲の形式はシ

ンプル。1966年の激しく盛り上がっていく「トライ・ア・リト

ル・テンダネス」を聴くとそれがよくわかるだろう。

 しかしそんなオーティスに一緒にライブをやるのを嫌が

らせたのが、ダブル・ダイナマイトと異名を取った二人

組、サム&デイブだ。ゴスペルのコール&レスポンスの

ような掛け合いで客を興奮させた。1965年アトランティッ

クと契約したサム&デイブは異例の措置としてスタックス

に連れて来られた。アイザック・ヘイズとデビッド・ポータ

ーの作曲チームのもと1966年に「ホールド・オン・アイ

ム・カミン」がヒット。ちょっと待って今行くから、と歌われ

るこの歌は黒人が白人の地位まで行くからと歌っている

と解釈された。実際はトイレに行ったデビッド・ポーターが

アイザック・ヘイズに急かされたのに対して答えた言葉

らしい。以後「ソウル・マン」「アイ・サンキュー」と立て続け

にヒットをとばした。スタックスのサウンドに惚れ込んだ

アトランティックはウィルソン・ピケットやドン・コヴェイと

いったシンガーを送り込みスタックスで録音している。


  マッスルショールズ

 1953年にアトランティック・レコードに副社長として

迎えられたジェリー・ウェクスラーは、1964年にアトラン

ティックレコードと契約したウィルソン・ピケットを翌年

スタックスに連れて行く。そして1965年に生まれた

ヒット曲が「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」だ。この曲の

歌詞もゴスペルからで真夜中に神を待つというのを

女の人に差し替えたものだ。しかし気分屋ですぐカッと

なるウィルソン・ピケットはスタックスのミュージシャンと

うまくいかず、メンフィスよりさらに南へ下ったアラバマ州

マッスルショールズのフェイムスタジオへと行く。南部の

マッスルショールズで今でも黒人が綿を摘んでるのを見た

ときにウィルソンピケットは北部に帰りたくなったそうだ。

しかしここで録音した「ダンス天国」で1966年またもや

ヒットさせる。マッスルショールズのフェイムスタジオは

白人のリック・ホールが設立した。そこのスタジオミュージ

シャンは白人で、「ダンス天国」は白人が演奏していたの

だ。アラバマ州のマッスルショールズは白人至上主義団体

KKKの活動拠点でもあるほど黒人差別が激しかった街

だ。そんな街がソウルの拠点になっていくのだから面白い。

アトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーは、

ウィルソン・ピケットに続きアレサ・フランクリンを連れて

行く。アレサ・フランクリンの父C・Lフランクリンはレコード

を出すぐらいの全国的に有名な牧師で、アレサ自身も

幼い頃からゴスペルを歌っていた。1960年にコロンビア・

レコードと契約、しかしポップスやスタンダード・ナンバー

などを歌わされて実力を披露することができなかった。

1966年にアトランティックと契約し翌年マッスルショール

ズで「アイ・ネバー・ラブド・マン」を録音。このセッションで

マネージャーであるアレサの夫とリック・ホールがうまくい

かずこれっきりになるが、なんとかこの曲をニューヨーク

で完成させた。発売されたシングルは瞬く間に25万枚以

上を売り上げゴールドレコードに輝いた。この後もアレサ・

フランクリンはヒットを飛ばしソウルの女王の名を欲しい

ままにした。とくに2枚目のシングルでオーティスのカバー

「リスペクト」は1967年全米1位の大ヒット、オーティス自

身、自分の歌でなくなったと言わしめたぐらいの名曲。

オーティスが男女間のことを歌ってるのに対し、アレサの

うたは全世界の女性として黒人としてリスペクトを訴えて

るように聴こえる。公民権運動のテーマソングのような

曲となった。アレサは父の友人であったキング牧師の活

動に熱心に参加、多くのイベントで歌ったりしている。

1968年6月にはキング記念基金設立に必要な資金を

集めるためにマジソン・スクエア・ガーデンで開催された

ライブにサム&デイブらと出演した。
 

  オーティスの死

 1965年にアル・ベルは初の黒人重役としてスタックス

に迎え入れられた。南部キリスト教指導者会議(SCLC)

で一時はキング牧師と行動を共にしたこともある。その後

DJとして活躍、エディフロイドと共同でインディーレーベ

ルも設立していた。そのエディ・フロイドを引き連れスタッ

クスに参加。業界に顔が利くアル・ベルのおかげでスタッ

クスのレコードが以前よりラジオで流れるようになり売り

上げもぐんぐん伸びた。面白いことに黒人が経営、バック

のミュージシャンもほとんど黒人だったモータウンが白人

に受け、白人が経営してバックのミュージシャンが黒人

白人混成のスタックスのサウンドは黒人に支持された。

 オーティス・レディングは1967年全米規模で初めての

ロック・フェスティバル、モンタレー・ポップ・フェスティバル

に出演し黒人と白人の両方の人気を博し始めていた。

しかし1967年「ドック・オブ・ザ・ベイ」を録音して3日後

の12月10日に飛行機事故によって26歳の若さで死んでし

まった。オーティスはマネージャーのフィル・ウォルデン、

スタックスの社長ジム・スチュワート、共同作曲者のスティ

ーブ・クロッパーと周りのスタッフに普通に白人がいた。

そういう意味で黒人と白人の人種統合の象徴的なソウル

シンガーだった。オーティスの死の数日前に録音された

「ドック・オブ・ザ・ベイ」が1968年初めに全米1位の大

ヒットとなり黒人と白人の間にあった垣根が取り払われ

たかのように思われたが、その年の4月にキング牧師

が因縁にもメンフィスで射殺された。これで実質的にソウ

ルは終わってしまったのかもしれない。ソウルは黒人と

白人の微妙なバランスの上に成り立っていた。それがつ

いに崩れてしまったのだ。皮肉にも「ドック・オブ・ザ・ベイ」

ではこう歌われていた。

 何も変わらないような気がする 

 いつまでたっても全部昔のままだって


  ブラックパンサー

 1965年ベトナム戦争はますます激しくなり泥沼化して

いった。ベトナム戦争は公民権運動から人々の関心を

遠のけ、莫大な軍事費は貧困プログラムの予算を削って

いた。今や人種間の問題にしか触れない公民権運動の

指導者や、白人が勝手にやっている戦争と知らん顔をし

てるネイション・オブ・イスラムは時代遅れになっていった。

 そんな中1966年10月に自分たちをマルコムXの子供

たちと呼ぶブラックパンサー党が、ヒューイ・ニュートンと

ボビー・シールズによってカリフォルニア州オークランドで

設立される。黒いベレーに黒革のジャケット、黒いズボン

に黒い靴で、黒人に対し差別的な警察を銃を持って監視

するというマルコムXをさらに過激にした組織だ。実際に

はスラム地区の清掃や朝食無料配給など大衆運動にも

積極的だった。1968年、全米にブラックパンサー党の

民衆組織が次々にできるとFBIは「アメリカ治安に対す

る最大の脅威」と定義する。今までは白人が黒人を監視

した立場だったのに逆に監視しようというのだから、

それは白人からすれば脅威だったであろう。CIAはスパイ

を送り込み、FBIは公然とブラックパンサー党の事務所や

党幹部の自宅を襲撃する。1968年初頭から1969年

12月はじめまでに警官との衝突で殺されたブラックパン

サーは28人にのぼった。しかし激しい闘争による逮捕や

亡命などで戦力は縮小し数年でブラックパンサーは

影響力を失ってしまう。


  ファンク

 ジェイムズ・ブラウンの1964年のヒット「アウト・オブ・

サイト」を聴けばメロディーではなくリズムが強調されてい

ることに気づく。コードの変化は最小でギターとホーンが

打楽器のように使われ、今までのようなハーモニーは

消えていた。ジェイムズ・ブラウン自身はこの曲で始まっ

たものが翌年「パパズ・ガット・ア・ブランド・ニュー・バッグ」

で実を結んだと言っている。後にこれがファンクの始まり

と呼ばれた。

 ジェイムズ・ブラウンはキング牧師が暗殺された直後、

暴動が起こることを予測し自分が持っているラジオ局の

生放送で冷静になるように呼びかけた。その翌日のマサ

チューセッツ州ボストンでは騒ぐ黒人を町から引き上げさ

せるためにコンサートをテレビ中継し、暴動でキング牧師

に報いるのはやめようと訴えかけた。番組は深夜0時ま

で再放送されその夜のボストンは平静に保たれた。その

次の日にはワシントン市長から要請があり暴動荒れ狂う

ワシントンに行きテレビやラジオで緊張状態を静めようと

した。

 そんな1968年9月にジェイムズ・ブラウンは「セイ・イッ

ト・ラウド・アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」を発表。

ジェイムズ・ブラウンが大声で言おうと呼びかけ、子供た

ちがそれに応えて僕は黒人だ、それを誇りに思うと歌い

上げる。実はここで歌っている子供はほとんどが白人か

黄色人種だったらしい。しかもこの曲ブラックパンサーに

もっと黒人について歌えと脅されて書いたという話もある。

ポップチャートでもヒットしていたジェイムズ・ブラウンの

ライブはこのレコード以後、客がほとんど黒人になったという。

確かにここまではっきりと歌われると白人もひいてしまう

だろう。それがまたキング牧師の殺された後というのが

時代の必然だったのであろう。

 しかし一方では反黒人で悪名高いリチャ−ド・ニクソン

大統領を支持したり、「アメリカ・イズ・マイ・ホーム」といっ

た歌も作る愛国主義者でもある。ベトナムや韓国まで出

かけアメリカ軍のために演奏したりもしている。急進派

の黒人からはアンクル・トム(白人に媚びる黒人)などと

言われたが、黒人の誇りについて歌ったことに変わり

はない。ジェイムズ・ブラウンは黒人が成功し白人の大

統領と並ぶことができると身をもって示したかったのだろう。


  モータウンその後

 1959年から1960年代中頃までのモータウンはまさ

に家族だった。ベリー・ゴーディーを父親として、副社長

を務めたこともあるスモーキー・ロビンソン、ベリーの姉ア

ンナと結婚し本当の兄弟になっていたマービン・ゲイ、秘

書だったマーサ・リーブス、シュープリームスとしてデビュ

ーする前の高校生だったダイアナ・ロスは暇さえあれば

遊びに来ていたし、10代だったスティービー・ワンダーに

とっては学校であったろう。誰もがベリー・ゴーディーに近

づけ、誰もがファーストネームで呼びあっていた。しかし

1967年末ベリー・ゴーディーはほとんどの時間をカリ

フォルニア州ロスアンジェルスの事務所で過ごすように

なる。1969年モータウンはデトロイトを離れると公式発

表。強い地元意識や黒人コミュニティに支えられ成功した

モータウンにとって、ロスアンジェルスへの移転は明らか

に裏切り行為であった。ロスアンジェルスに移ったモータ

ウンはテレビ番組、映画、ミュージカル製作などまで手を

広げ、社内には複数の白人重役が誕生しており黒人レ

ーベルとしてのアイデンティティは薄まっていた。1969年

にベリー・ゴーディー自ら作曲チームに参加しプロデュー

スしたジャクソン5がモータウンらしさの最後であろう。

皮肉にもデビューシングルのタイトルは「帰ってほしいの」。

しかしモータウンはデトロイトに帰ることはなかった。


  ニューソウル

 マービン・ゲイは1971年モータウンの徹底的に管理さ

れた音楽に不満を抱きセルフプロデュースのコンセプト

アルバム「ホワッツ・ゴーイン・オン」を発表。今までのモ

ータウンのアルバムが1、2曲のシングルと後は穴埋め

のカバー曲などであったが、このアルバムにはマービン・

ゲイの恋愛、政治、宗教に対するメッセージが全体的に

貫かれている。

 1966年に公民権運動に同調した「プレイス・イン・ザ・

サン」をヒットさせていたスティービー・ワンダーも1971

年には成人し自由に音楽を制作する権利を手に入れ、

政治メッセージや自分自身の哲学をアルバムに込め

1972年「トーキング・ブック」を発表した。これらはもはや

モータウンサウンドではなく彼らアーティストのサウンド

となった。

 1970年にソロ活動を開始したカーティス・メイフィール

ドは「ムーブ・オン・アップ」でインプレッションズ時代の

「ウィー・アー・ウィナー」でうたわれていた言葉を使うが、

そこにはあの頃の楽観性はなかった。60年代のとにかく

前に進もうというものから、70年代の貧困、ベトナム戦争、

ストリートギャング、ドラッグなどをテーマにした歌へと変

化していく流れはそのまま黒人社会の流れだ。

 これら70年代のマービン・ゲイやスティービー・ワンダ

ー、カーティス・メイフィールドなどの音楽はニューソウル

と呼ばれた。確かにそれらは60年代のソウルとは違い、

内省的で希望と絶望の入り混じったシビアな視点があった。


  スタックスその後

 キング牧師暗殺の日、スティーブ・クロッパーやドナル

ド・ダック・ダンら白人がスタジオから帰るときには、他の

黒人ミュージシャンが守ってあげなければならなかった。

それまで普通だった黒人と白人の信頼関係もぎこちなく

なってしまったのだ。スタックスレコードは1968年5月、

配給元であるアトランティックレコードを離れ大手資本に

身売りして、今までと経営方針も音楽性も変わっていく。

1969年にブッカーTはカリフォルニア州に引越し、ス

ティーブ・クロッパーも1970年にはスタックスを離れて

いった。1972年にはジム・スチュワートは会社の実権

をアル・ベルに売り渡してしまい、家族みたいな雰囲気

のスタックスも黒人社長で黒人スタッフ中心のレコード会

社となった。

 1968年8月にフロリダ州マイアミで全米テレビラジオ

アナウンサー協会(NATRA)主催のソウル界の集会が

行われた。黒人DJとレコード会社など音楽関係者の

交流を目的としていた。アトランティックレコードやモータ

ウン、スタックスのスタッフやアーティストたちが出席。

キング牧師の未亡人コレッタ・キングやキング牧師の

後継者で「貧者の行進」運営の責任者だったジェシー・

ジャクソンといった公民権運動の指導者たちも出席。

この集会の参加者はジェリー・ウェクスラーやオーティス

のマネージャー、フィル・ウォルデンなど数人を除けば

ほとんど黒人だった。しかしこの集会に公正委員会と

名乗る団体が入り込み白人に暴行をした。公正委員会

の主張はソウルミュージックで儲けてる白人から金と権力

をもぎとるといったものらしい。ジェリー・ウェクスラーやフィ

ル・ウォルデンは脅迫を受けた。ブッカーTも白人と同じ

バンドでプレイするのをやめろと脅迫されたらしい。この

事件は未だに真相がはっきりせず公正委員会のメンバー

や本当の目的も謎のままだ。

 この事件を境にしてソウルは黒人と白人が協力すると

いう姿勢がなくなった。1967年10月に大手資本に身売

りしインディーズ・レーベルではなくなっていたアトランティ

ックは、C・S&Nやレッド・ツェッペリンなど白人ロックに

力を入れるようになる。オーティスのマネージャーだった

フィル・ウォルデンはオールマン・ブラザーズなど白人の

サザンロックを手掛ける様になる。ラジオも黒人ラジオ

はファンクやニューソウルを流し、白人ラジオが流すのは

ロックとはっきり分れるようになってしまった。


  黒人社会その後

 1965年から1969年にかけて年収3000ドル以下の

黒人の比率は下がり10000ドル以上は28%に達した。

1965年に10パーセントだった大学進学率も1971年に

は18%まで上がっている。しかし依然ゲットーやスラム

に住む黒人にとっては経済的に自立する手立てはなか

った。ドラッグがはびこり、少女の妊娠や未婚の母は増え、

いまだ残る白人からの差別。結局黒人社会は公民権運

動の恩恵を受けた中産階級と制度的差別があってもなく

ても変わらない貧困層に分裂しただけだった。


  終わりに

 公民権法を勝ち取ったのはキング牧師の力だけでは

ない。人種平等会議(CORE)はキング牧師より前から

非暴力運動を行っていた。多くの指導者や名もない普通

の人たちの努力があっての公民権運動なのだ。同じよう

にソウルもサム・クックやレイ・チャールズやジェームズ・

ブラウンだけが作ったわけではない。多くの有名でない

黒人歌手のたくさんの曲の上にソウルは生まれたのだ。

 実際に公民権運動に参加していたミュージシャンは

ジョーン・バエズ、ピーター、ポール&マリーなどインテリ

白人フォーク・シンガーで、黒人ではすでに成功していた

ハリー・ベラフォンテやマヘリア・ジャクソンらである。今か

ら成功しようとしているソウルシンガーがわざわざ白人

に嫌われる運動に参加するわけがなかった。実際ジョー・

テックスはネイション・オブ・イスラムだったが音楽と運動

は別とはっきり言っている。たいていの黒人にとっては

成功して金持ちになることが差別からの脱出だと考えて

いたであろう。しかし今まで書いてきたように声高に叫ば

なくても主張するべきことはやはりするのである。

 ソウルは公民権運動が盛り上がり黒人も白人と平等に

なれるという期待が高まる中、黒人が自分たちの存在を

歌ったものだということははじめに書いた。それが故に

1968年キング牧師が殺されソウルも死んだと言える。

これは別に感傷的に言ってるのではない。新しい時代に

は新しい時代の音楽がある。そう公民権運動が分裂、

過激化していった時代にはファンクやニューソウルがあ

るのだ。

 ソウルが好きという人の中には政治のことはどうでもい

い、音楽だけ聴いてれば言いという人もいるかもしれな

い。公民権運動なんて昔の話でよくわからないとい人も

いるかもしれない。でも在日外国人は未だに1950年代の

アメリカの黒人のように選挙に行けない。なぜ日本で生

まれて日本で育ち日本で働いて税金も払ってるのに地

方参政権も認められないのか。日本には公民権運動も

ソウルも始まってないのかもしれない。



参考文献
スウィート・ソウル・ミュージック/ピーター・ギュラルニック
魂のゆくえ/ピーター・バラカン
リズム&ブルースの死/ネルソン・ジョージ
ブルース・ピープル/リロイ・ジョーンズ
ニグロ・スピリチュアル/北村崇郎
R&B、ソウルの世界/鈴木啓示
レコード・コレクターズ増刊ソウル&ファンク
ミスターソウル サム・クック/ダニエル・ウルフ
わが心のジョージア レイ・チャールズ物語/レイ・チャールズ&デイヴィッド・リッツ
俺がJBだ!/ジェームズ・ブラウン&ブルース・タッカー
アトランティック・レコード物語/ドロシー・ウェイド&ジャスティン・ピカーディー
モータウン、わが愛と夢/ベリー・ゴーディー
モータウンミュージック/ネルソン・ジョージ
スタックス・レコード物語/ロブ・ボウマン
ファンク/リッキー・ヴィンセント
黒人差別とアメリカ公民権運動/ジェームズ・M・バーダマン
アメリカ黒人解放史/猿谷要
キング牧師とその時代/猿谷要
マルコムXとは誰か?/丸子王児
キング牧師とマルコムX/上坂昇
ブラックパンサー/ジーン・マリー


トップページへ      ブログへ
inserted by FC2 system