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UKパンクは世界を変えたか?

1、セックス・ピストルズ

1970年代の石油危機以後、イギリスの経済は大きな危機に陥った。
景気後退、インフレの進行、財政赤字、失業率の増加。
1976年、失業者は100万人を越え、翌年には150万人の大台に近付いていた。

1976年11月26日、セックス・ピストルズが
シングル「アナーキー・イン・ザ・UK」でデビュー。
俺はアナーキストになりたい。怒れ、破壊せよ!
と歌われているが、ピストルズはアナーキストの意味を知っていたのであろうか。

アナーキストは日本語では通常「無政府主義者」と訳されるが、
必ずしも政府を全廃するという思想ではなく、
また無秩序を意味する「無政府状態」(アナーキー)を求める思想ではない。

人間関係の行いにおいて、権力や権威を減少させ、
ゆくゆくは無くそうとする人たちのことで、決して破壊などは求めない。

1977年5月27日、セカンドシングル「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」
反王室、反イギリス、あらゆるものに反対を唱える曲。
女王陛下の在位25周年祝典の時期にあわせて発売。
神よ女王を救いたまえ、大英帝国の夢に未来などないと歌われている。

1977年6月7日、女王のパレードをそっくり真似て、テムズ河に船を出しライブを行う。
警察の船に取り囲まれ、演奏中止を命ぜられたが従わず、数名が逮捕。
この月はほぼ毎週のようにメンバーが狂信的な右翼に襲撃された。

ジョン・ライドン「ピストルズが政治的なわけないだろ。
          俺たちゃアナーキストじゃなくて、ただのガキンチョだよ。」


2、クラッシュ

1977年3月18日、クラッシュがシングル「ホワイト・ライオット」でデビュー。
1976年8月30日のノッティングヒル・カーニバルの黒人暴動のときに作られた曲。
暴動を起こした黒人への賞賛しているのだが、
逆に人種差別を呼び起こそうと誤って解釈された。

1978年のライブでジョー・ストラマーのTシャツに書かれていたのは
西ドイツのバーダーマインホフや
イタリアの赤い旅団といった極左集団への支持だった。
赤い旅団はこの年のイタリアのアルト・モロ前首相殺人に関わっていた。

ジョー・ストラマー「俺たちは政治のことなんてなにも知らないんだ。
            俺たちゃただのバカの集まりだぜ。
            俺たちは何かに関して何かを言おうとしているんだ。
            間違ってるかもしれないけど。」

1977年5月、ジャムがデビュー。
ジャムのライブにはユニオンジャックが掲げられていた。
パンクが反体制なら、それにさらに反対し保守派であった。

ポール・ウェラー「女王はイギリスの最高の外交官だと思っている。」
           「自分の国に反するようなことはやりたくない。」
           「世界を変えようという姿勢はもう古いんじゃないかな。」
           「僕らは次の選挙では保守党に投票するよ。」


3、RAR

1976年8月、酔っ払ったエリック・クラプトンが
バーミンガムのライブで「外国人はイギリスから出て行け」と発言。

それに対し、左翼活動家などが音楽界の人種差別的な立場に対抗して
RAR(ロック・アゲインスト・レイシズム=人種差別に反対するロック)を結成。
SWP(社会主義労働者党)の前衛組織。

これには右翼団体ナショナル・フロントが
支持率を上げていたことへの危機感があった。
ナショナル・フロントは1976年と1977年の地方選挙で実際に議席を確保した。

RARはナショナル・フロントを活動停止に追い込み、
パンクの象徴、鍵十字を破壊し、雑多な人種が混ざりあうことを目指す。

RARの活動の中心はライブイベントを開催し、
白人のパンクバンドと黒人のレゲエバンドを一緒に出演させた。
 
1978年4月のRARのイベントはヴィクトリア公園で開催された。
8万人の観衆が集まり、クラッシュ、ブームタウン・ラッツなどがライブをした。
この模様はクラッシュの映画「ルードボーイ」で観ることができる。

1979年5月3日の選挙ではナショナルフロントは
主要政党と呼べないほど劇的に得票率を落とした。
だがこの勝利はマーガレット・サッチャー率いる保守党の大勝利で台無しにされた。

1981年のRARのイベントにはスペシャルズが出演。
スペシャルズは白と黒の2トーンをシンボルとした
人種混合バンドでRARの趣旨にはぴったりだった。
1982年には保守派だったジャムも出演。その後RARは自然消滅していく。


4、スタイル・カウンシル

ジョー・ストラマー「私の賞賛はポールウェラーが左翼に転向したことに向けられる。
            進歩が可能だということを語りかけているからだ。」

ジャム1982年12月に解散、スタイル・カウンシル1983年デビュー。
CNDのイベントでライブデビュー。

イギリス最大の反核団体、CND(核廃絶キャンペーン)は、1958年2月に設立。
1979年のNATOの決定による欧州5ヶ国への中距離核ミサイル配備、
これを契機に反核、反戦の動きが本格化。
サッチャーはアメリカに対し、
バークシャーにある空軍基地に原子力巡行ミサイルの配置準備を許可。

1983年5月20日、スタイル・カンシルのセカンドシングル、
軍事的な現状に対する批判をこめた「マネー・ゴー・ラウンド」発売。
印税をCNDに寄付。

1970年代にも時折開催をしていたが
1981年にグラストンベリー・フェスティバルは
CNDの運動基金を作るために定期的に開催。
1985年6月22日、スタイル・カウンシルは
グラストンベリー・フェスティバルのメインアクトを務める。

1982年には失業者は300万人に到達した。
1982年4月、フォークランド紛争がおこる。
フォークランド諸島の領有を巡り、
イギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争。
1983年総選挙、保守党とサッチャーは再び勝利。


5、ライブエイド

1977年、ブームタウン・ラッツがデビュー。
1984年10月、ブームタウン・ラッツのリーダー、ボブ・ゲルドフは
自宅のテレビでエチオピア飢饉に関する番組を見る。
それをきっかけにバンドエイドというプロジェクトが動き出す。
12月3日、エチオピアへのチャリティシングル
「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス・タイム」発売。
ボブ・ゲルドフ、スティング、ボノ、ポール・ウェラーなどが参加。

彼らはクリスマスの季節が訪れたことを知っているだろうか?
人々に食料をと歌われているが、
イスラム教も多くいる国に対して、キリスト教中心主義的な歌ではある。

アメリカではこれに触発されて、USA フォー・アフリカが
「ウィー・アー・ザ・ワールド」発売。
我々は世界、我々は子供と歌われているが、
これもキリストの子供という意味であろうからキリスト教中心主義な歌だ。

1985年7月にはライブエイドとしてアフリカ難民救済を訴えた。
イギリスとアメリカの二つを中心に日本を含む各国のミュージシャンが連携した。
その模様は世界84ヵ国に衛星中継された。
イギリスの出演者はポール・マッカートニー、デビッド・ボウイ、
クイーン、U2、スタイルカウンシルなど。1億4000万ドルの寄付が集まった。


6、レッドウェッジ

1985年11月21日、保守党を倒すため、そして
労働党への若者の投票をうながすための団体としてレッドウェッジ発足。
ポール・ウェラー、ビリー・ブラッグ、ジェリー・ダマーズなどが参加。
イギリスの総選挙史上初のロックによる選挙運動の始まり。
1986年、1987年にかけてライブイベント開催。

サッチャー政権は新自由主義、
経済政策は民営化、規制緩和、減税を基調としていた。
労働者の権利保護の規定が著しく後退した。
富裕層の支払う所得税が引き下げられた。

スタイル・カウンシルは「ウォールズ・カム・タンブリング・ダウン」で

政府は分裂し体制は滅びる
強力な団結をもってすれば壁は崩れ落ちるだろう
階級闘争は神話じゃなく現実だ
壁は崩すことができるのさ

とまるで労働歌の歌詞のような曲を作った。
しかし運動の甲斐なく、1987年の総選挙は保守党勝利で三期目の任期に入った。

ビリー・ブラッグ「レッドウェッジが表出していたのは
          ポップカルチャーと政党政治の主流を
          一緒のところに持ち込もうとする試みだったんだ。
          これは僕らの身の破滅かもしれないけれど、
          それはなんでクラッシュが世界を変えられなかったかってところから
          生まれた僕の結論だったんだ。
          明らかに彼らはそうするって僕に約束し、
          無垢にも僕はそれを信じていたんだ。
          でも政権を取り得る政党に対して、
          歌の中で彼らは全然アイディアを出していなかったじゃないか。」

ポール・ウェラーは徐々に政治的な運動に参加することを滅らしていった。


7、AAA

アパルトヘイトは南アフリカ共和国における
白人と非白人の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。

1984年、スペシャルAKA「フリー・ネルソン・マンデラ」発表

これに触発されてアメリカでは、
1985年「Sun City」 Artists United Against Apartheid発表。

1986年4月15日、AAA(アーティスト・アゲインスト・アパルトヘイト
                =アパルトヘイトに反対するアーティスト)が
ジェリー・ダマーズによって発足。文化ボイコットを機能させていくことを目的とした。

1986年6月、クラップハム・コモンでAAAがフリーコンサートを開催。
ジェリー・ダマーズ、エルヴィス・コステロ、スタイルカウンシル、B・A・Dなどが出演。

ロッド・スチュワート、エルトン・ジョン、クイーンらが南アフリカでライブしないと誓約。

1988年6月11日、ウェンブリー・スタジアムで
ネルソン・マンデラ70歳の誕生日に捧げられたイベント開催。
7万2000人の観衆が集まる。
皮肉にもダイアー・ストレイツをバックにエリック・クラプトンが演奏。

1990年2月11日、ネルソン・マンデラが27年にも及ぶ束縛の後に釈放。

1994年4月に南アフリカで全人種参加の初の総選挙が行われ、憲法が制定。
ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトが完全に撤廃された。


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