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関西フォークは世界を変えたか?


1、アメリカのフォーク

そもそもフォークソングとはブルース、ゴスペル、
ヒルビリー、ケイジャンなどアメリカの様々な民俗音楽。

1930年代に民俗音楽の録音採集をしていた学者、
アラン・ローマックスが民衆の歌を取り戻そうという
フォークソング復興運動を提唱。

1940年代にウディ・ガスリーやピート・シーガーが
フォークを共産党の政治集会や労働組合運動へ展開。

1950年、ピート・シーガーのウィーバーズ
「グッドナイト・アイリーン」全米大ヒット。
1958年、キングストン・トリオ「トム・ドゥーリー」ヒット。
モダンフォーク・グループのブーム。

1962年、ボブ・ディランがレコード・デビュー。
PPM「天使のハンマー」ヒット。
この頃にはフォークが公民権運動、反戦運動と結びつく。

フォークソングとは左翼運動と結びついた文化運動。
フォークソングとは常にリバイバル。
白人中産階級が勝手に作りあげた古き良きアメリカ。


2、日本のフォーク

1960年代の日本ではキングストン・トリオやPPMに
影響を受けたカレッジ・フォークがブーム。
東京では大学生のグループによる英語コピーが主流。

1966年4月5日にはマイク真木が
「バラが咲いた」でデビュー。浜口庫之助が作詞作曲。
浜口庫之助はスパイダースの
「夕陽が泣いている」も作詞作曲。
カレッジ・フォークもグループ・サウンズも
同じ職業作家の手によって作られたブームだった。


3、関西のフォーク

1966年7月、大阪労音に秦政明が
「フォークソング愛好会」が発足。
労音(勤労者音楽協議会)とは、
労働者のための音楽の普及を目的とした組織。
秦政明は次々とフォーク・イベントを主催する。
 
9月19日、高石友也が
大阪、土佐堀YMCAのコンサートで飛び入りでうたう。
この時のテープを聴いた秦政明は
高石友也に会いに行き意気投合。

高石友也はアメリカのフォークソングを
日本語に訳して歌っていたので、
「外国の歌をそのまま外国語で歌うのではなく、
 その意味をとらえて日本語にして歌うこと、
 歌謡曲のようなプロの作詞家が書いた言葉でなく、
 自分の生活感を持った言葉で歌うこと。」
という秦政明の思うフォークの定義にぴったりだった。

同じようにアメリカのフォークソングを
日本語に訳して歌っていた中川五郎は、
1967年3月、ベトナム反戦講演会での
高石友也を観て衝撃を受ける。
高石友也に話しかけた中川五郎は、
高石友也の後について色々な場所で歌うことになる。

岡林信康も高石友也が歌うのを観てギターを持つ。
高石友也のコンサートに飛び入りで歌う。

9月には大阪市北区兎我野町にある
山安ビルに高石友也事務所が設立。

高石友也は立教大学から釜ヶ崎へ、
岡林は同志社大学から山谷へ。
インテリゆえの労働者純粋主義という側面はあった。


4、フォーク・クルセダーズ

1967年10月15日、フォーク・クルセダーズが
解散記念に自主制作アルバム
「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ」300枚を作る。

全然売れないのでラジオ局に配ったところ、
「帰って来たヨッパライ」がラジオ関西で火がつく。

12月25日には「帰って来たヨッパライ」が
東芝レコードから全国発売、280万枚の大ヒット。
フォーク・クルセダーズは1年間だけ
期間限定で活動することに。

1968年2月21日には「イムジン河」発売中止。
代わりに「悲しくてやりきれない」を発売。

この頃、高石友也「受験生ブルース」もヒット、
当初、関西フォークはコミック・ソングと捉えられ、
メジャーの音楽に対して
アングラ(アンダーグラウンド)と呼ばれる。

10月には予定通りフォーク・クルセダーズは解散。


5、アングラ・レコード・クラブ

フォーク・クルセダーズの「イムジン河」や
岡林信康の「くそくらえ節」が発売中止になったことを受け
秦政明は1969年2月に、
自主制作でURC(アングラ・レコード・クラブ)を設立。
年会費を納め会員になった人だけに毎回、
アルバム1枚、シングル2枚が送られた。
第1回配布アルバムは「高田渡/五つの赤い風船」。
         
「自衛隊に入ろう」が有名になっていた高田渡は
東京に住んでいたものの、
関西で受け入れられたので京都へと引越してきた。

8月には入会希望者が殺到し会員制から一般市販へ。
岡林信康のアルバム「私を断罪せよ」と
五つの赤い風船のアルバム「おとぎばなし」が発売。

フォークソングは日本の音楽の再発見でもあった。
五つの赤い風船が歌った「貝殻節」や
フォーク・クルセダーズの「ソーラン節」といった民謡、
 高石友也が歌う「のんき節」、
高田渡が歌う「あきらめ節」といった明治演歌。


6、フォーク・ゲリラ

1969年2月28日、
ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の若者たちが、
新宿西口地下広場でフォーク・ゲリラ集会を開く。
そこでは高石友也や岡林信康、
中川五郎、高田渡らの歌が歌われた。
本人らがフォーク・ゲリラ集会に
歌いに来ることはなかった。

毎週末に行われていた新宿のフォーク・ゲリラ集会は
6月28日には7千人規模になり、
機動隊と衝突、多数の逮捕者、負傷者を出す。
7月19日には機動隊が逆占拠して、
新宿西口地下広場は地下通路となり
フォーク集会は消滅した。

フォークソングの理念には、
自分の気持ちや意見を誰もが歌っていい
ということなので、ある意味、
フォーク・ゲリラはフォークソングの申し子たちだ。

URCは新宿フォークゲリラの集会の模様を
ドキュメント・シリーズ「新宿1969年6月」として
レコードにしている。   

8月8日、大阪城跡公園で
「反戦のための万国博」が行われ、
高石友也、岡林信康とフォーク・ゲリラの論争になる。

フォーク・ゲリラ側の意見は
「ステージでうたうだけでなく、街頭に出て歌うべきだ、
 デモに参加して機動隊に向かってうたうべきだ。

 フォークは民衆の歌、
 その民衆から金を取って搾取するのか?
 高石事務所系のフォークシンガーを商業主義と批判。」

8月11日には日比谷野音のフォーク・ゲリラ集会、
雨の中で高石友也とフォーク・ゲリラの論争。
高石友也が歌っている途中で
フォークゲリラがステージを占拠、
「歌を歌って金をもらってないで
、なぜ我々と一緒にフォークゲリラとして闘わないのか」
と高石友也に自己批判をせまる。


7、関西フォークの終焉

9月6日、岡林信康は
大阪の労音主催のコンサート初日をすっぽかして蒸発。
延々と続くコンサートの日程による肉体的疲労と、
労音内部の岡林の歌は暗すぎるとの
批判への論争による精神的疲労から。

高石友也や岡林信康らのコンサートでは、
毎回終了後に、歌い手、コンサート運営者、
観客らが集まり、反省会、討論会が開かれていた。

12月7日には高石友也が「さよならコンサート」を開き
アメリカへと渡る。
高石友也の思うフォークとは
良い歌を歌い継ぐというものだったが、
中川五郎の曲を利用しているという誤解を受け、
自分で曲を作らないことを批判される。

初期の関西フォークはレパートリーを
共有して良い歌を歌っていたが、
自分で曲を作るほうが偉いという風潮になっていく。

1970年1月1日には、
高石友也事務所から音楽舎へ名称変更。
高石友也は事務所を離れ、
中川五郎はスランプになり曲を作れなくなる。
岡林信康ははっぴいえんどを従えて、ロック化していく。
高田渡は添田唖禅坊の明治演歌の世界から
現代詩の世界へと移行していく。

1970年代は社会に物申すプロテスト・フォークから
個人的な四畳半フォークの時代へとなっていく。






 関西フォーク年表


1966年

7月
大阪労音に「フォークソング愛好会」が発足。
          
8月19日
第1回フォークフォークフォーク(秦政明主催)
マイク真木、森山良子、
関西からフォーク・クルセダーズ、阪大ニグロなど
アマチュア多数、観客3千人。

9月19日
高石友也が大阪、土佐堀YMCAのコンサートで
飛び入りでうたう。
          
10月10日
第2回フォークフォークフォーク、高石友也など。

12月20日
高石友也シングル「かごの鳥ブルース」で
ビクターからデビュー。


1967年

3月
中川五郎、ベトナム反戦講演会での
高石友也のライブを観て声をかける。

4月28日
高石友也、大阪毎日ホールで初のリサイタル。
ゲスト、フォーク・クルセダーズ、中川五郎など。

7月29〜30日
京都高雄で第1回フォークキャンプ
高石友也、北山修、ジローズ、中川五郎など。
歌い手、ファン、音楽評論家など
フォークに関心のある100人ほどが集まり、
何故歌うのか?からボブ・ディランの紹介、
訳詞について、明治の演歌についてなど
フォークについての講演、討論会、
コンサートなどが合宿スタイルで行われた。
第1日が創作・討論、第2日は野外フェスティバル。

9月
高石友也「フォーク・アルバム第1集」ビクターから発売。

高石友也のコンサートに岡林信康が飛び入りで歌う。

大阪市北区兎我野町にある山安ビルに
高石友也事務所、設立。302号が事務所、603号が控室。

10月15日
フォーク・クルセダーズの自主制作アルバム
「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ」300枚完成。

11月18〜19日
大阪府総合野外活動センターで
第2回フォーク・キャンプ。
高石友也、中川五郎など。岡林信康も参加。120名参加。

フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」が
ラジオ関西で火がつく。

12月25日
フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」
東芝レコードから全国発売、280万枚の大ヒット。


1968年

2月
高石友也「受験生ブルース」発売、ヒット。

2月21日
フォーク・クルセダーズ「イムジン河」発売中止。

3月21日
フォーク・クルセダーズ「悲しくてやりきれない」発売。

3月
高石音楽事務所、正式に設立。

3月27日
「アンダーグラウンド音楽祭」
大阪サンケイ・ホールで開催。
高石友也、フォーク・クルセダーズ、ジャックス、
中川五郎、岡林信康、五つの赤い風船など。
翌日には神戸でも。

5月
岡林信康、高石音楽事務所に入る。
ビクターより「くそくらえ節」発売中止。

7月10日
フォーク・クルセダーズのアルバム「紀元弐千年」発売。

8月9〜11日
京都山崎宝寺で第3回フォーク・キャンプ。
高石友也、岡林信康、フォーク・クルセダーズ、
五つの赤い風船、ジローズ、中川五郎、
東京から高田渡、小室等、遠藤賢司、南正人など。
参加者300名。
これを機に高田渡、遠藤賢司、高石事務所に所属。

9月
岡林信康「山谷ブルース」でビクターからデビュー。

10月17日
フォーク・クルセダーズ解散。
フォークルさよなら公演最終コンサート、
大阪フェスティバル・ホール。


1969年

1月11日
ベ平連主催「反戦フォークと討論の集い」に
中川五郎参加。
中川五郎はメーデー参加、学生集会、
ベ平連ともコンサート共催など積極的に参加してきた。

2月
アングラ・レコード・クラブ設立。
年会費を納め会員になった人だけに毎回、
アルバム1枚、シングル2枚が送られる。限定2千枚。
第1回配布アルバム「高田渡/五つの赤い風船」
   
2月28日
新宿西口地下広場でフォーク・ゲリラ集会を開く。
          
3月
岡林信康「チューリップのアップリケ」発売。
部落解放運動で知った子供の作文がもとになった曲。   

3月20日〜4月2日
東京と大阪で6日間ずつ「あんぐら音楽祭」開催。
「オープニング・コンサート」「ジャックス・ショウ」
「プロテスト・ソング大会」「五つの赤い風船と六文銭」
「加藤和彦・端田宣彦とシューベルツ・リサイタル」
「岡林信康リサイタル」。

4月
URCから第2回配布
アルバム「六文銭/中川五郎」
岡林信康シングル「くそくらえ節/がいこつの歌」
高田渡シングル「大ダイジェスト版三億円事件のお話し」
高田渡、京都へ引越し

5月
新宿西口広場集会禁止令が出る。

5月5日
五つの赤い風船「恋は風に乗って」ビクターから発売。

6月
高石友也「フォーク・アルバム第3集」ビクターから発売。

URCから第3回配布
アルバム「岡林信康リサイタル/休みの国」
高田渡シングル「転身/電車問題」
        
6月28日
新宿フォークゲリラ7千人規模に、
機動隊と衝突、多数の逮捕者、負傷者。

7月19日
機動隊を2千人動員し占拠、
新宿西口地下広場は地下通路となりフォーク集会消滅。

8月1日
URC、入会希望者が殺到し会員制から一般市販へ。
岡林信康アルバム「私を断罪せよ」
五つの赤い風船アルバム「おとぎばなし」
ドキュメントシリーズ「新宿1969年6月」フォークゲリラ  

8月8日
大阪城跡公園で「反戦のための万国博」
高石友也、岡林信康とフォーク・ゲリラの論争。

8月9〜10日
岐阜県中津川で第1回フォーク・ジャンボリー、
3000人参加。中津川労音が企画。

8月11日
日比谷野音のフォーク・ゲリラ集会、
雨の中で高石友也とフォーク・ゲリラの論争。

8月15〜17日
第4回フォークキャンプ、琵琶湖サンケイバレイ、
打ち上げコンサートは円山公園野外音楽堂

9月6日
岡林信康、大阪の労音主催のコンサート初日を
すっぽかして蒸発。

9月13日
中川イサト、五つの赤い風船をぬける。

10月
高田渡アルバム「汽車が田舎を通るそのとき」
中川五郎シングル「殺し屋のブルース/うた」
   
11月
中川五郎アルバム「終わりはじまる」
五つの赤い風船シングル「血まみれの鳩 」

12月
中川五郎シングル「腰まで泥まみれ」
高田渡シングル「自衛隊に入ろう/
           東京フォークゲリラの諸君達を語る」

12月7日
高石友也渡米のため「さよならコンサート」
大阪フェスティバル・ホール。
          
1970年

1月1日
高石友也事務所から音楽舎へ名前変更。
高石友也は事務所を離れた。
          
          
参考文献
日本フォーク紀/黒沢進
60年代フォークの時代/前田祥丈、平原康司
風に吹かれた神々/鈴木勝生


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